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2009年06月04日(木)
「野球のルールを何一つ知らなかった」歴史に残る野球マンガの作者

『サンデーとマガジン〜創刊と死闘の15年』(大野茂著・光文社新書)より。

(「時期を同じくして(1959年3月17日)創刊された、「週刊少年サンデー」(小学館)と「週刊少年マガジン」(講談社)のライバル関係を描いた新書の一部です。「週刊少年マガジン」の看板となった『巨人の星』の誕生秘話)

【1965年の年末に、梶原(一騎)からマガジンへ『巨人の星』第1回の原作(文字)原稿が届いた。話は、戦前の巨人軍で幻の三塁手と言われた星一徹が、うらぶれた貧乏長屋で息子の飛雄馬と暮らしているところから始まる。父のスパルタ教育で、小学生にして驚異的な野球技術を身につけた飛雄馬が大騒動を巻き起こす……第1回目から息をもつかせぬ波乱万丈の筋立てである。
 その文字原稿を読んだ上司の椎橋(しいはし)久局長がこんなことを訊いてきた。
「ときに、星一徹というのは何年ごろにジャイアンツにいた選手だったかな?」
 創作でありながら、まるでノン・フィクションと錯覚してしまうような華麗な筆運びにマガジン編集部は「これはイケる!」と全員が思ったという。
 ではその傑作をいったい誰に作画してもらうのか。
 マガジン編集部からは数多の候補者が提案されたが、そのなかから選ばれたのが、川崎のぼる(1941年〜)であった。さいとう・たかをのアシスタントを経て、少年サンデーで西部劇の劇画を連載していた。精緻な人物描写は、ヒューマンドラマ(ちなみに飛雄馬はヒューマンから名付けられた)にうってつけと思われた。

 だが、川崎の仕事場を訪れた内田と宮原を待っていたのは、またも意外な反応だった。
 梶原の原稿をしばらくの間じっと読んでいた川崎は、その原稿を黙って、すっと内田に返して寄こした。そして、腹の底から搾り出すような声で、
「残念ながら、この仕事はお引き受けできません」
「なぜですか。連載しているサンデーへの義理立てがあるからですか」
「梶原先生の原作に何か問題でも?」
 内田と宮原の問いに、川崎は、しばらくどう答えていいか戸惑っているようだった。
「いいえ、物語の始まりを読んだだけでも、これほど素晴らしい作品に僕は出会ったことがありません」
「では、なぜお断りされるのですか」
「実は……私はとても貧しく育ち、小さな頃から働いていたので、友達と遊んだ記憶がありません。原っぱで皆が野球をやっていても、遠くから眺めるだけでした。だから野球のルールは何一つ知らないのです。もしこれが、野球以外のテーマであれば……こんな傑作をみすみす見逃すなんて、描き手として千載一遇のチャンスを失う心境ですが……」
 途切れ途切れに、出てくる言葉には、悔恨の念が溢れていた。
「ちばてつやさんが、『ちかいの魔球』を描いた時も、ちばさんは全然野球のことを知らなかったんですよ。ちばさんは、実際にキャッチボールをしながら、一つ一つ野球のことを学んで、あの名作が出来たのです。今度も、我々が川崎さんに野球のことを最初から手ほどきします」
「ちばさんと違って、僕にはまったく自信がありません」
 押し問答の末、内田たちはとにかく原作を川崎に預けて、すぐその足で交渉の途中経過を梶原に報告しに行った。当然ながら、梶原は不機嫌になった。
「野球のことを知らないのでは話にならない。誰か別の人はいないのですか」
「川崎さんしか適任者は考えられません。もうしばらく時間を下さい」
 その後もマガジンお得意の粘り強い交渉で、数か月の後にやっと川崎の内諾をとりつけることができた。
 そこから、ストライクとボール、アウトとセーフの違い……野球のルールを宮原が川崎に教える日々が続いた。

 そして、1966(昭和41)年4月、予定より3か月遅れで『巨人の星』の連載が始まった。
 ストーリーコンセプトはもちろんであるが、この作品が画期的であったのは、表現面での斬新さであった。今ではショックの代名詞でもある「がーん」という擬音表現は、このとき川崎がマンガ史上初めて使用したものである。主人公・飛雄馬の顔の上にかぶさる「がーん」の文字に梶原一騎が感心し、逆に今度は原作の文字原稿にそれを多用するようになった。
 感動シーンの背景に描かれる巨大な夕陽、そして瞳の中の燃える炎……燃える瞳の場合は、梶原の文字原稿に「飛雄馬の両眼には炎が燃えていた」とあるのを、川崎がそのままダイレクトに表現し、またもやそれに梶原が感服し……と、2人の作者の熱い化学反応によって、この作品は不朽の名作へと昇華していったのである。にもかかわらず、5年間にもおよぶ長期の連載中、2人は数度しか会ったことがなく、しかも面を向かって作品に関する話は一度たりともしなかったという。
 グラブとミットの違いもわからなかった川崎が『巨人の星』を描いたという事実は、いかに常識とか先入観が当てになれないかを示している。川崎のぼるの『巨人の星』、ちばてつやの『ちかいの魔球』と、歴史に残る野球マンガはいずれも野球知識ゼロの人によってこの世に生まれたのである。】

〜〜〜〜〜〜〜

 いや、いくらあの時代でも、いないだろ星一徹!

 『巨人の星』は、とにかく「熱い」(というか、巨人ファンでもなく、再放送でしかアニメも観たことがない僕にとっては、いささか「暑苦しい」)マンガだったのですが、このマンガが生まれるまでの経緯もまた「熱い」物語だったようです。

 現在ほど多種多様なマンガ家がいる時代であれば、いくらなんでも、「野球のルールが全然わからない人」に野球マンガを描かせようという編集者はまずいないのではないかと思うのですが、「野球のルールそのものを実地で教えながらマンガを描いてもらう」ほど、当時の「週刊少年マガジン」のスタッフは、川崎のぼるさんを評価していたんですね。
 そして、その期待に川崎さんも見事に応えてみせた。
「がーん」をはじめて使用したのは『巨人の星』だったというのは、これを読んではじめて知りました。

「飛雄馬の両眼には炎が燃えていた」というのをそのままマンガに描いたというエピソードは、川崎さんの工夫というよりは、「原作の表現をそのまま忠実に絵にした」だけのような気もしますが、「野球を知らないから」と作画を一度は断ったような川崎さんの「生真面目さ」が、『巨人の星』にはプラスに作用していたのではないかと思います。

 波乱万丈の人生を送った梶原一騎さんとは、プライベートではまったく馬が合わなかったのではないか、という気もしますけど、それにしても、「5年間の連載中に数度しか会ったことがなく、面と向かって仕事の話は一度もしたことがない」というのもすごい。もしかしたら、個人的な付き合いが深まることにより、「馴れ合い」に陥ることをおそれていたのかもしれません。

 著者の大野茂さんは、「歴史に残る野球マンガはいずれも野球知識ゼロの人によってこの世に生まれたのである」と書いておられますが、後の時代には、『ドカベン』の水島新司さんや『タッチ』のあだち充さんのように、「豊富な野球知識に基づいた野球マンガ」が登場してきます。

 しかしながら、たしかに「マンガ高度成長期」には、そういう「圧倒的なエネルギー」が「知識のなさ」をカバーできていたのかもしれませんね。
 野球を知りすぎていて、こだわりを持っている人だったら、「地面にバウンドしたときの土煙で見えなくなる」という「消える魔球」を大真面目に絵にすることは、できなかったような気もしますから。